前回、トップの画像にご飯茶碗の裏をのせたので
今回はご飯茶碗のお話でも。
結構な期間、ご飯茶碗を作っていなかったのですが、
ここ何年か前から作り始めています。
ご飯茶碗を考えるに、そもそも今の感じでご飯を炊くといった
感じで食べ始めたのはいつからだろうかと思うと、
多分明治以降、地域によれば昭和に入ってからかなと
推察します。
江戸時代はお米は年貢と換金作物で、多分「江戸」では米を炊いて
食べていた人は多かったのでしょう。ここでいう江戸とは、どれぐらいの
感じでしょうか。
関八州とかいうのがあるので、まあ山手線のうちとかね。
大阪の人間にはもひとつ地理がわかっていませんね、あははは 。
で、その他の国々ではきっと五穀、麦やったり蕎麦やったり雑穀とか大根とか、まあ色々混ぜ込んで食べていたんではないでしょうか。
戦後の世代ではもうすでに「銀シャリ」という言葉は、生では聞いたことはないですが、大阪では大店とか奈良よりとかでは、「茶がい(茶粥)」を食べる風習があったとかね。
ちなみね、昨年釜ヶ崎で「茶がい」を食べさせていただきましたが、びっくり!
全然「おかゆ」と違う、サラサラです。
これは美味い!でした。
で、多分その食べ方は今の感じで「炊く」のではなく「煮る」感じやったんじゃないでしょか。それと江戸時代ぐらいは「焼きもの」ではなく「木のお椀」の地域がめっちゃ多かったのではないのでしょうか。日本全国山ばっかりなので、その場所で作れるもんがあるのに他から重い「焼きもの」を持ってくるかな、です。
で、明治になり鉄道が敷かれ割と奥の方まで流通経路ができて、まず「陶器」が流れ、そして「磁器」が「陶器」を駆逐していく。
(ここに修行していた長野の心象風景なども入れたいのですが、割愛します)
で、その時代に農地革命(って言葉があったかな)がずんずん進んでどんどんお米が作られて
日本全国で「ごはん」を「炊いて」食べる形になっていく。
まーこんな感じでしょうか(荒いなー)まっ、適当に読んでください。
で、「炊いたごはん」を盛るものが「ご飯茶碗」と。
しかし前時代に「木碗」で食べていたので「陶器」では重すぎる。
そこへ白くて軽くて強い「磁器」です。
終わってるやん「陶器」の茶碗・・・。
と思って、作っていなかったんです。
ここからですよー、し・か・し。
しかし、この両手で包みこめる形と大きさの器がくるんですよね。
どこに?心に!
で作り始めました。
なんと!結論3行かよ。
今日はここまで。
最後まで、読んでいただきありがとうございます。